小池幹二
戦争体験者が亡くなる中で、悲惨な戦争の記憶をどう保存し継承していくのか。 昨年米寿を迎えた私は、折しも二つの文学作品に出合いました。
一つは高橋弘希の著書「指の骨」、それは彼が35歳のデビユー作です。太平洋戦争時のニューギニア島を舞台に補給を絶たれ飢えと傷病にさいなまれて死んでいく兵士たちの姿を乾いた筆致で描きました。無残な死にむかう兵士、それぞれに懐かしい故郷と穏やかな暮らしと大切な家族があったことが偲ばれる場面が光のように戦争の非道さを照らし出します。
戦死した兵士の「指の骨」は切り落とされ遺骨とされました。こうした史料を基に圧倒的な想像力を駆使して戦争を表現しています。読者に戦争を追体験させる本著は若い世代への戦争記憶の継承の可能性を示しています。
もう一つは、「詩人会議3月号」の「鬼火」も戦争を知らない世代、木島章の作品です。被爆した長崎で死んだ幼子を背負い、はだしの足に血をにじませて火葬場に歩いて来た少年、彼はジョーオダネル報道写真の「焼き場に立つ少年」になりました。詩人木島章は少年を見据え、言葉を刻みつけます。直立不動のまま燃えさかる炎を見つめる少年、10歳にも満たないあどけない顔からはいっさいの表情が消え、彼もまた燃えていた。
詩は二度と戦争はしないという固い決意で平和の願いを訴えます。再び少年に重い荷を負わせてはいけないと。