私は韓国(当時朝鮮)金泉邑で生まれ育つ。家は地主だったが日本の統治下、重税で生活は大変だった。終戦の年、1月3日に日本軍に召集される。赤紙が届いて3日後入隊、陸軍2等兵。もう日本軍は敗北の一途で、装備も貧弱で軍服もなく、普段着で軍事訓練という体たらくだった。
●ビンタと慰安所の軍隊生活
食べ物は不足し空腹のうえに20㎏の荷を背負っての訓練は厳しく、耐え難いものだった。そして何かと理由をつけ毎日ビンタ。連帯責任で班全員、二人を向かい合わせて「ほお」を互いに殴り合わせる。「ゆるい」と見られると倒れるほど強く殴る手本が示された。韓国人兵士は弾よけとして扱われ、「鮮人」「チャンコロ」などと呼ばれた。
ある日、班長の命令で「たまには遊んで来い、好きにやってこい」と慰安所に連れられる。慰安所は川の土手に幾つか建てられた小屋。小屋の中には素裸にされた女性が横になっている、私は何もしないですぐ帰った。
●終戦
私の隊は満州から南方へ行く作戦に変った様だが、もはや輸送船は無い。「戦況はどうなっている?」という声に「口を出すな」と怒鳴り声。こうした日々が過ぎ、戦場へ行くこと無く終戦を迎える。翌年私は日本に移住する。後に日本共産党に入党するが韓国籍の私は離党。
木村(ペンネーム)釜利谷西在住 91歳