昭和18年に国民学校一年生になって、最初の授業参観の時間は、図画で皆、日の丸の旗を描きました。家では五つ上の姉が「神武すいぜい安寧いとく・・・とブツブツ年中つぶやいていました。
19年になると空襲が激しくなって、警戒警報のサイレンが鳴ると駆け足で皆家に帰らされましたし、解除になるとまた学校へ行き、学校から遠かった私は毎日運動会のようでした。あのサイレンは、火事のサイレンと同じで物凄い音量で突如けたたましく鳴るので、生きた心地はしませんでした。
何事も天皇のため、家でも学校でも教えられ、式の日は講堂の舞台の奥正面の幕が開いて、天皇の写真が現れ、皆頭を下げて、聞かされるのが教育勅語でした。始めの朕思うにという言葉と終わりの御名御璽という言葉だけよく覚えています。
戦争に行って天皇のために命をささげる事と知ったのは、後のことでした。 2年生の3月9日の深夜のサイレンで起こされ、B29の大編隊が浅草に近かった家の真上に、あられのように落としていく焼夷弾の恐ろしさの経験から私は自分の一生を決めたように思います。一生戦争に反対していこうと。戦争するのはやめよう。死ぬまで私は言い続けます。
(片吹 K)
「日本共産党片吹西柴後援会ニュース」より