私は岩手県の田舎、鍛冶屋の10人兄弟姉妹の長男として生まれ育ちました。
軍国少年の私は昭和16年尋常小学校を卒業すると家業を継がず、戦闘機で闘いたく立川飛行場で働きました。村を出るとき村総出で見送られました。
軍隊さながらの生活
工場では工員の私は戦闘機に乗れないでその組立作業に従事。起床から食事、入浴、就寝まですべてラッパの合図で行動。軍事教練で明治神宮、靖国神社までの行軍し、「いずれお前たちは靖国に祭られる」と教えられた。
命令を少しでも出来ないと怒声やシゴキ、ビンタ、耐えられず脱走や自殺も。一人は私の助けで自殺未遂となりました。
多くのいのち、若いいのちが犠牲に
敗戦近くなると米軍の空襲が始まり、立川飛行場を目標に200機ほどのB29の編隊が2波、3波と来襲し高い上空から爆弾を投下。それに加え、日本軍の地上から迎え撃つ砲弾が米軍機までとどかないで炸裂、破片が降りそそぎ犠牲になり死体の山。それでも、たまたま日本軍の戦闘機が体当りで米軍機を撃墜するとみんなで喜びました。
ある日、工場や宿舎が夜間に空襲を受け全員退避。朝、戻ると工場などは跡形もなし。早く戻った者は米軍機が投下した時限爆弾、早朝帰る頃に爆発する様に仕掛けた爆弾に工場とともに犠牲になったのです。私はこの時も助かりましたが、また多くの若いいのちが散りました。戦局が悪化し、米艦隊から発進した戦闘機が機銃掃射で逃げ惑う人に襲いかかり、またその犠牲になりました。
再び戦争はしてはならない
もう戦闘機の組み立てどころではありません。最初の頃は腹いっぱい食べた食料も無くなり、野草でも食べられそうな物は何でも口にしました。今から振り返るとこうして生きているのが不思議です。
(語る人S氏 85才 釜利谷西在住)